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2022/05/29

第三部「『見える』の論理」(『経験論と心の哲学』読書会)


 レジュメ作成:@Nowolfallowed

第三部「『見える』の論理」

l  これまでのおさらい

第一部:認知的なものを非認知的なもので説明しようとする、「所与の神話」と呼ばれるべき哲学的発想がある。「~は赤く見える」という個物についての非推論的信念が「~は赤い」という信念を正当化するというセンス・データ論を例に取り、この説明方法が、学習や習得を要さないとする個物に関する感覚内容を感覚することと、文の形式を持ち概念の習得を前提とする推論に跨ることで重大なトリレンマに陥ることを概説する。

第二部:「~が赤く見える」という文が、赤いなにかを人が見ている状況をセンス・データ論的に記述し説明するための人工的な言語であるというエヤーの主張を検討する。この言語は自律的な論理的関係を持たないことで説明身分を得る。例えば自然言語側では(I)「ある象は桃色をしている。」から(H)「ある象は桃色の中のある確定された色合いをもっている。」を導けるが、(I)に紐づいたセンス・データ文(K)「あるセンス・データは桃色をしている」から別のセンス・データ文(L)「あるセンス・データは桃色の中のある確定された色合いをもっている」を導くことはできない。センス・データ文のこの非自律性を遵守する限り、このような文を想定するメリットは物理的対象と知覚者についての通常の言説の内部に存在する論理的諸関係を明らかにするという点にあると考えられる。しかしこの文の問題は(自然言語でしか書けない故に非自律性を侵犯しやすいという問題の他にあり)、「あるものが主体Sには赤く見える」という「主張」が実際にあるものが赤いということを推論しようとしているところにある。この「見える」の文について、第三部では検討する。

10節「内的出来事」批判はセンス・データ論批判としてずれている!

l  センス・データ理論は次の2つの考えの混合からなる

(1)何らの先行する学習や概念形成の過程なしに、さらにそれなしではある物理的対象のこちら側が赤く三角形をしていることを見ることがなどができないような「内的出来事inner episodes」が存在する。

(2)あるものが赤く三角形をしていることを非推論的に知ることであるような「内的出来事」が存在し、その内的出来事が他のすべての経験的命題の証拠を提供するものとして経験的知識の必要条件であるという考え。

l  ここからセンス・データ論を批判するため内的出来事を批判することがある。

論理実証主義タイプの批判:内的出来事は間主観的に検証したり実証したりできるものではない。(レジュメ作成者コメント:第一部レジュメで論理実証主義がセンス・データ論にコミットしている例として挙げたが、こういう意味で間違いだった。訂正する)

私的言語批判タイプの批判:内的出来事は推論的に基礎づけられた知識の前提になることを批判する。なぜならそれは公的言説や言語学習の網を逃れているから。

l  セラーズ的に、内的出来事批判はずれている。これを批判しても所与の神話に知らずの内にコミットしてしまいうることをこれから提示する。特に私的言語批判タイプは(1)内的出来事は私的な領域な出来事として容認できる点でこの批判は強すぎる。また(2)所与の神話を退けた後に残る、観察可能な出来事としての内的出来事を解釈する上では弱すぎる。

11節 「見える」は関係?

l  ASにはΦと見える」は関係を示している

「そのトマトはジョーンズには赤く見える」のような文は見えている、表れているという定まった三項関係が成り立っていると想定されてきた。関係は存在者と別の存在者の間にあるものを指す。なので、ここでは三項関係ということで知覚する主体S、知覚されるものを提示す物理的対象A、知覚される性質(個物が存在すると想定される。この関係・行為は「xzyを与える」からR(x, y, z)という一般的形式の一例と解釈されてきた。

l  関係ならばセンス・データを用いて分析可能

この三項関係はセンス・データによって分析ができる、ないしは説明できるというのがセンス・データ理論の主張。ここでは「私には~がFに見える」という現れについての表現が、「~はFである」というような実在についての主張を導くような推論にコミットしている。(注釈《9》《92番目pp.159~161)

l  xSにはΦと見えるという形式の事実は還元不可能

この現れることの理論を批判し、センス・データ理論を拒むならセンス・データは分析や説明にとって不要となる。

l  「見える」文は関係を示しはしない

結論としては、「~と見える」は知覚する対象の存在か性質についての主張にコミットする(是認する)ことを一部差し控えることを表現している。(1617) 

12節・第13節 「赤い」は「赤く見える」に先行する

l  センス・データ理論での「見える」操作子の扱い

「見える」操作子を繰り返して、「赤く見えるように見える」ということはできない。実在について誤ることはあっても、それがどう見えるかという現象について人は誤り得ないとデカルトは考えた。こうして見えや現れは非推論的に引き出される主張によって報告されるような、認識論的に確固とした基盤を持つ、つまりそれ以上の正当化を必要としないような知識であると想定される。「赤く見える」ということでは「あるものが赤く見える」という知識しか得られないが、これによって対象であるあるものについての知識を再構成する可能性が生まれる。(注釈《12pp.163165)

l  「赤く見える」の赤く、は「~は赤い」の意味と同一

あるものが私には赤く見える、そしてそれは本当に赤いのか?という問いは、その対象がもっているように見える性質()を本当にもっているのか?と問うている。

l  「赤い」は「赤く見える」に論理的・概念的に先行する

この問いは「赤い」概念を先にもっていないと提示できないものである。「赤い」という概念を知らない人が「これは本当に赤い?」とは聞けないから。言い換えれば、「xは赤い」を「xyにとって赤く見える」を用いて分析することはできない(順序が逆転している)

l  では必然的真理「xが実際に赤い⇔xは標準的な条件下で標準的な観察者にとって赤く見えるであろう」はどう解釈されるべきか?

これは必然的真理だが、もし左辺の「赤い」を右辺で定義すると、右辺の「赤く」が論点先取となってしまう。結論としては、これは「赤く」がどんな性質なのかではなく、どんな条件の下であれば対象が赤く見えるのかを知っていることを含んでいる(18)

l  「見える」は関係ではない

この必然的真理を解釈する上で必要なタスクは、②右辺が左辺を定義することなく、必然的真理であるにはどうすればよいか、そして①「xSにとって赤く見える」が三項関係などの関係を示してはいないことを検討すること。「見える」は関係語に文法的に類比的だが、あくまで類比的。

14節 「これは緑色に見える」という文はどういう経緯で現れる?

l  ネクタイショップのジョンの例、最後の電灯導入者

ジョンは色を示す語を普通に学習してきたが、1つだけ例外なのは対象を標準的な条件下以外では見たことがないということ。この時点で電灯が発明され、ジョンは仲間の中で最後に店に電灯を導入したとする。そこへ既に電灯の下でものを見慣れている隣人のジムがネクタイを買いに来る。

l  店の中では緑色、外では青色?

ジョンはジムに緑色に見えるネクタイを勧めるが、ジムはそれは青色だと言い、外で見ると実際それは青色だった。中で緑色のネクタイが外で青色になったわけではないとジョンは理解できるし、電灯のもとでものを見慣れているジムには店の中でもネクタイは青く見えている。

l  緑色に見えても、それは緑色でないと知っていれば「これは青色です」というほかない

それを理解したジョンは、次にそのネクタイについて客に聞かれた時「それは緑色です」と言うのを堪えて「それは青色です」と言うだろう。しかし、まだ電灯の下でものを見慣れていないジョンにとっては、まだそれは緑色に見えている。「何を見ているのか」と問われたジョンは「それは緑色にみえているようなのです」と答える。

l  「これは緑色をしている」の事実陳述的使用と報告的使用

事実陳述的(fact-stating)推論を介して間接的に反応すること。

報告的(reporting):推論によらないで事態に直接的に反応すること。

ジョンは「このネクタイは緑色をしている」という報告を抑える(推論によらない直接的な反応を控える)ことを学習したということは、ジョンは「それは青色をしている」と言うし、それは報告ではなく推論の結論として述べることになる。

(ブランダムのコメント:この事実陳述的/報告的というワーディングは無理がある。非推論的に引き出された主張(セラーズにとっては報告的)と、推論の結論として生まれた主張の間の区別は、事実陳述的言説内部の区別である。特に前者も推論によって正当化されるというのがセラーズの結論になるから、たぶん)

l  報告の実践と推論の実践の間の新しい次元

信頼できる報告者に関しては、ある人がxFであると述べる形成をもつ事実、そして状況が、知る限りは、標準的であり、かつその条件の下でそのような傾性をもつとき通常xFであるという事実からxが事実Fであるという結論へと推論することは許される。

ジョンはこの信頼できる報告者として想定されるが、彼の反応的傾性における体系的な誤りの可能性を理解することで、報告の実践と推論の実践の間に新たな次元が導入される。(注釈《14p.167) 

15節 「~に見える」は報告?

l  「緑色に見える」をセンス・データで説明しようとすると……(既に退けたが)

しばらくするとジョンは「このネクタイは緑色に見えます」と言うことを学んでいるはず。これは新たな報告なのか?その場合「緑色に見える」という主張は知覚者がもつ信念や概念的枠組みとは論理的に独立である。しかもそれは最小限の事実、すなわ誤る可能性が低く、報告してもより安全であるような事実となる。この場合の最小限の事実は、ある条件下ではそのネクタイはジョンには緑色に見えるという事実であり、その事実は「このネクタイは緑色に見える」という文を用いて報告される。しかしこのセンス・データ型の説明は既に退けられている。

l  しかしこれが報告でなければ、「このネクタイは緑色に見える」は何を報告しているのか?

16節 同一の経験についての別の主張

①ある時点であるものが緑色に見えるという経験をもつこと。

②あるものが緑色をしていることを見ること。

この2つは経験としては非常に類似する一方で、②では単に経験について記述するだけでなく、その経験を、主張をなしていると性格付け、かつ是認(endorse)している。「ジョーンズはその木が緑色をしているのを見る」言明は、ジョーンズの経験をどのように記述しているかを特定しよう(センス・データを用いて分析しよう)とするより、ジョーンズの経験に命題的主張を帰属させ、是認していると理解したほうが容易。

l  当面問題になるのは経験に帰属される命題的主張。「視覚印象」や「直接的経験」の論理的・概念的身分については後に扱う。

l  Sはその木が緑色をしているのを見る」の「見る」は、経験に主張を帰属させるだけでなく、その主張を是認してもいる。

ライルの言う達成語(achievement word)。セラーズは、これがなしているのはSの経験に意味論的な真理概念を適用することであることから、「まさにそうである(so it is)」とか「まさにそう(just so)」語と呼ぶ。

Ø  感覚能力(sentience)だけでなく知性能力(sapience)をもつことが要求する次元:理由の空間(注釈《16pp.168169)

訓練されたオウムは赤いものを前にして「これは赤い」と言うことができる(感覚能力を持っているとは言える)。とは言えこれだけでは概念を使用する真正な非推論的な報告者とは言えない。

異なる対象や性質を前に異なる反応を示すこと(弁別的な反応傾性、これが第一の次元)では足りない。これでは乾燥していれば錆びず、湿っていれば錆びる鉄も乾燥している/湿っている概念を持つことになってしまう。

第二の次元は理由の空間において反応を位置づけること、理由を与えたり、求めたりすることからなるゲームにおける動きを報告でなすことである。赤いものについての非推論的報告者は、その報告によって果たされる推論的役割を習得していなければならない。

²  推論的役割:ある言明を立ち聞きしたとき、何をそれから導く権利を持っているのか、何がそれの理由とみなされるのか、それは何と両立不可能であるか、そして何がそれに反対する理由とみなされるのかに関わるもの。報告という行為の遂行によって報告車によって引き受けられた主張にかかわるコミットメント(報告者が責任を負うもの)の推論によって分節化される内容にかかわる事柄。

l  「ジョーンズは、Xは緑色をしているのを見る」は命題的主張をジョーンズの経験に帰属させるとともに、それを是認している。

l  一方で「Xはジョーンズにとって緑に見える」は命題的主張をジョーンズの経験に帰属させつつ、命題の内容を是認していない。しているのは、ジョーンズはジョーンズにとってXが緑色をしているという真実を語るような経験とは区別不可能な経験をしているという事実を報告すること。「~に見える」と言うことで是認すべきか否かを保留している。

Ø  ということで、デカルトが提起したような「見える」の訂正不可能性は、主張についての是認の留保に由来していることが明らかになる。あるものが緑色であると主張することは、是認した主張や引き受けたコミットメントが正しくないことが判明しうるという点で、誤りうる。一方であるものが緑に「見える」ということは、是認を留保している。これはコミットメントを差し控えていることになる、なので誤りえない。なぜなら誤りうるコミットメントを持たないから。

Ø  これは「見える」操作子を繰り返せない理由でもある。「Fである」と言う時にコミットしていたものに、「Fに見える」と言うときはコミットしていないから。「Fに見えるように見える」の2つ目の「見える」にはコミットするものが残されていない。

Ø  コミットメントを持たないということは真理概念を適用できないということでもある。つまり「見える」文は主張行為をなしていない。

l  「見える」文は主張ではない、つまり知識(の基盤)になりえない

Ø  (1)それは主張ではない。主張行為でなすべきコミットメントを保留しているから。

Ø  (2)「見える」語りは他のゲームをすることなしに行えるような自律的な主張ゲームではない。ものが実際にどうであるかについて語るような経験的報告をなすという実践に全面的に依存している。「xは赤く見える」と言うは、「xは赤い」と言うことが真正な報告として扱われるにはどうすれば良いかを報告者が知っていて初めてできる。それは「緑色だ」とは両立しないとか、「熟したトマトと同じ色をしている」という帰結を引き出せたりできるということを知っているということ。

17節 一般的な見えという表現を可能にする「見える」語り

l  非推論的報告を行う弁別的な傾性の表現をしつつ、その主張を是認しないという「見える」語りはなぜできるのか?

Ø  Answer:そうしないと一般的な「見え」の語りを扱えないから。以下そのメリットを2つ説明する。

Ø  Xは時間tにおいてSにとって緑色に見える」は、時間tにおいてXが緑色をしているという時に持っている経験は、経験としては何かが緑色をしているのを見ることとは違いがないと想定する。

Ø  メリット1:「質に関わる」見えることと「存在に関わる」見えることの類似した扱いを許す

()その木は曲がっているのを見る。→木の存在と性質を共に是認する。

()その木は曲がって見える。→木の存在は是認しつつ、その他については是認しない。

()向こうに曲がった木が存在するように見える。→「向こう」にあるという側面以外は何も是認しない。

Ø  メリット2:事物の一般的な見えをもつことが可能になる。

Xは私には赤く見える」と言う時、その赤は真紅とか濃紅とか、特定の赤色の色合いではない。

²  仮に赤く見ることが自然的事実(つまりセンス・データである)なら、この一般的な見えを説明することはできない。センス・データ=個物は特定の見えをもつことなしに、色や色合いをもつことはできないものであるから。(9)

18節 真正な報告者として必要なこと、どんな条件の下なら赤く見えるかを知っていること

l  「緑に見える」と報告する時に前提とするもの

Ø  緑であるという概念:これは対象が何色をしているかを見分ける能力(弁別的な反応傾性)だけでなく、ある対象を見てその色を確かめたいときにはその対象をどのような条件におけばよいかを知っているということも含む。

ジョンの事例:ジョンに「なぜ君にはこのネクタイは緑に見えるのか」と聞けば、「それは青色をしているが、この種の光線の下では青色をしたものは緑色に見える」と答えるだろう。

l  必然的真理「xが実際に赤い⇔xは標準的な条件下で標準的な観察者にとって赤く見えるであろう」が必然的真理である理由

Ø  右辺が左辺の定義だからではなく、「標準的な条件」が対象があるがままに見える条件を意味しているから。

²  そのような標準的な条件の下では人の反応的傾性を信頼することができ、そしてそれが「xが赤い」という主張を全面的に是認すべき条件となる。

²  そしてそれらの条件はどのようなものかも経験的に探究できるようになる(開かれた構造)

19節 1つの概念の習得にはそれを含む多くの概念が必要である

l  標準的な条件が何であるかを知っているということ

Ø  これが要求するのは、「それは緑である」と発声できる能力だけでなく、どうしたらそれが適切であると受け入れられるかを知っているということ。

Ø  緑の概念を知るのに緑の概念は前提されないが、緑の概念を一要素として含むそれ以外の多くの概念のひとまとまりを持つことによってのみ、緑の概念を持てるようになる。1つの概念を習得すために、その概念が推論によって関係している他の概念をすでに習得していなければならない。

20節 想定されるセンス・データ論者からの批判~経験論の伝統をさらに退ける~

l  ある概念を習得するには、それを含む多くの概念のまとまりを習得しなければならない、という論に想定されるセンス・データ論者からの反論

Ø  経験論の伝統として、概念相互の独立性という性質は感覚内容にかかわる概念に属している。ということは理論的存在者についての概念はともかく、理論的概念は、より根本的な論理(概念)空間に依存と共応をしている。xは赤い概念と緑概念は、対象がもたらす自然的性質、知覚される個物の性質によって区分されるし、それらは他の概念(陽光など)とは相互に独立である。

Ø  また「赤く見える」によって「物理的対象が赤い」ことがどのようなことであるかを分析することはできないとしても、センス・データ論者が感覚内容の質や現象的関係を用いて物理的対象の性質を分析することはなおできる。

l  再反論:やはりその「赤い」というような枠組みはどうやって得られたのか?

Ø  センス・データ論者はセラーズが「xは赤いことを見る」ような、赤い感覚内容を感覚するよりも基本的な認知の形態をないということに不満を持つ。

Ø  しかしこの不満は「xは赤い」という概念を先に習得していることがやはり必要となる問いである。

Ø  セラーズの分析自体に感覚内容のような存在はまったく示されない。

Ø  赤く見ることは物理的な赤さの分析に用いることができないとわかれば、物理的赤さに対して何らかの種類の傾性による分析をすることができるという考えは蓋然性を失う。これは非認知的な、反応的な傾性のみによって物理的赤さを分析することはできないということである(オウムの例)

Ø  時間と空間のうちに位置するような物理的対象についての観察概念(xは赤いというような)は、推論において是認を操作するような認知的能力をも要求する。

l  概念相互の独立性を退ける作業は第33節~第37節まで持ち越し。当面は存在と性質の是認に関わる「見える」の説明を進めていく。

2022/05/22

『経験論と心の哲学』を第4部まで読んだ覚書き、「」付きの文と付かない文の違い


分析哲学系の文章を読み慣れている人には大丈夫だろうが、という「」の用法について。強調の用法はあまりなく、文脈的な語であること、専門用語であることを示す用法と、言語的なものであると示す用法の2つに大別される。この文章で論じられる認知的なものと非認知的なものの区別を明示する上で、後者の用法が重要になる。

第一部、第二部あたりでは、辞書的な意味だけでなく何らかの意味が付与されていたり文脈上で使う用語や専門用語に「」を括る用法が中心となる。この1つ目の用法は例えばp9「直接知knowledge by acquaintance」、p15「志向性」、p20「豊かにされたコード」など。これについてはここではこれ以上触れない。

もう1つの用法は、p11「感覚すること」、p15「天上の都市について考えること」、p19「トマトはSに赤くふくらんだセンス・データを提示する」などで使われる。この「」の用法は、音声なり文字なり何らかの言語で表現されたものであることを示している。以降はこちらの用法のみ解説する。

第三部以降、主張のような、推論したり認知的な、知識にまつわるもの/知覚することのような非認知的な出来事、経験にまつわるものの区別にこの言語表現であることを示す用法が強く効いてくる。特に第16節の次の文章からはこの用法を理解しなければ何を書いているのかは読めなくなる。

「ジョーンズはその木が緑色をしているのを見る」という言明がジョーンズの経験に命題的主張を帰属させかつその主張を是認している、ことを理解することは、その言明がジョーンズの経験をどのように記述しているのかを特定するよりもずっと容易である。(pp.37-38)

ここで「ジョーンズは……」で示されるのは文形式の言語表現である。この言語表現は、その言語表現に対応する命題内容を示す。命題内容とは、文形式を持つ言語表現によって示され、真であるか偽であるか適切な概念使用によって判別される、真理概念をもつようなものであり、推論に関わる。

命題内容とは別に、ジョーンズは、ジョーンズがその木を緑色をしているのを見るような経験をもしている。ジョーンズの経験は命題内容とともに「ジョーンズはその木が緑色をしているのを見る」文を構成するものであり、命題内容を帰属させるものとして指定される、因果関係など非認知的なものに関わる側面である。経験論の伝統ではジョーンズがジョーンズは……というような経験をすることを「ジョーンズは……」文が記述しているという理解であるが、セラーズはそれを否定する。命題内容との関係としては、経験は命題内容の帰属先である。ラッセルが言うような「直接知」というのは不整合である、あるいは非認知的なもの(出来事など)から認知的なもの(文形式を持つ知識)を持つことはできないという、第6節のトリレンマの一端を示す箇所でもある。

後に第4部で示されるように、

「その木は曲がっているのを見る。」 

「その木は曲がって見える。」

「向こうに曲がった木が見える。」

という3つの言明(つまり言語表現)が示す命題内容(知識・主張に関わる認知的な側面)は是認するものが異なる一方で、それぞれの命題内容を帰属させる先となる経験の側は非常に類似している。これをセラーズは記述内容という語で示す。曲がった木を見るという視覚経験(内的出来事)は同一でも、(第三部で示されるように)観察者が、曲がった木を見る経験からその木は曲がっているという命題内容を適切に導く条件を知っているかや、今その条件下にあるかどうかを知っているかによって、これらいずれかの是認する範囲の異なる主張を引き出すというのが、ここでの論旨である。

というわけで、「」が言語表現を示す用法である場合、「」内の言語表現が示すものは命題内容と記述内容の2つがあることがわかる。「」は言語表現、「」内の文が「」なしの地の文で表れたら命題内容か記述内容だと思っておけば当面は通じるであろう。この2つの存在身分は言語表現ではないから言語表現の側を「」で括って表現するのだが、表し方自体では言語を用いざるをえないので読解を難しくしているかもしれない。「」無しの側に異なるものが2つあるとなればなおさらだ。命題内容か記述内容かの違いはセラーズはきちんと書いてくれているので、その違いがわかれば安心だろう。命題内容と記述内容の違い、さらにそれを示す言語表現との違いを明確にしながら本文を読めるようになってもらうことをこの記事では目的としている。そうなってくれれば幸いである。

 

2022/04/24

2022/04/23

第一部「センス・データ理論の多義性」レジュメ(『経験論と心の哲学』読書会)



 レジュメ作成者:ペット不可(@NowolfAllowed)

 この論文では所与の神話と呼ばれる考えの枠組み全体を批判し、所与の神話で説明されてきた物事をそういった考えに囚われずにどう解釈すればよいのかを提案する。

 

2022/04/09