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2022/05/22

『経験論と心の哲学』を第4部まで読んだ覚書き、「」付きの文と付かない文の違い

分析哲学系の文章を読み慣れている人には大丈夫だろうが、という「」の用法について。強調の用法はあまりなく、文脈的な語であること、専門用語であることを示す用法と、言語的なものであると示す用法の2つに大別される。この文章で論じられる認知的なものと非認知的なものの区別を明示する上で、後者の用法が重要になる。

第一部、第二部あたりでは、辞書的な意味だけでなく何らかの意味が付与されていたり文脈上で使う用語や専門用語に「」を括る用法が中心となる。この1つ目の用法は例えばp9「直接知knowledge by acquaintance」、p15「志向性」、p20「豊かにされたコード」など。これについてはここではこれ以上触れない。

もう1つの用法は、p11「感覚すること」、p15「天上の都市について考えること」、p19「トマトはSに赤くふくらんだセンス・データを提示する」などで使われる。この「」の用法は、音声なり文字なり何らかの言語で表現されたものであることを示している。以降はこちらの用法のみ解説する。

第三部以降、主張のような、推論したり認知的な、知識にまつわるもの/知覚することのような非認知的な出来事、経験にまつわるものの区別にこの言語表現であることを示す用法が強く効いてくる。特に第16節の次の文章からはこの用法を理解しなければ何を書いているのかは読めなくなる。

「ジョーンズはその木が緑色をしているのを見る」という言明がジョーンズの経験に命題的主張を帰属させかつその主張を是認している、ことを理解することは、その言明がジョーンズの経験をどのように記述しているのかを特定するよりもずっと容易である。(pp.37-38)

ここで「ジョーンズは……」で示されるのは文形式の言語表現である。この言語表現は、その言語表現に対応する命題内容を示す。命題内容とは、文形式を持つ言語表現によって示され、真であるか偽であるか適切な概念使用によって判別される、真理概念をもつようなものであり、推論に関わる。

命題内容とは別に、ジョーンズは、ジョーンズがその木を緑色をしているのを見るような経験をもしている。ジョーンズの経験は命題内容とともに「ジョーンズはその木が緑色をしているのを見る」文を構成するものであり、命題内容を帰属させるものとして指定される、因果関係など非認知的なものに関わる側面である。経験論の伝統ではジョーンズがジョーンズは……というような経験をすることを「ジョーンズは……」文が記述しているという理解であるが、セラーズはそれを否定する。命題内容との関係としては、経験は命題内容の帰属先である。ラッセルが言うような「直接知」というのは不整合である、あるいは非認知的なもの(出来事など)から認知的なもの(文形式を持つ知識)を持つことはできないという、第6節のトリレンマの一端を示す箇所でもある。

後に第4部で示されるように、

「その木は曲がっているのを見る。」 

「その木は曲がって見える。」

「向こうに曲がった木が見える。」

という3つの言明(つまり言語表現)が示す命題内容(知識・主張に関わる認知的な側面)は是認するものが異なる一方で、それぞれの命題内容を帰属させる先となる経験の側は非常に類似している。これをセラーズは記述内容という語で示す。曲がった木を見るという視覚経験(内的出来事)は同一でも、(第三部で示されるように)観察者が、曲がった木を見る経験からその木は曲がっているという命題内容を適切に導く条件を知っているかや、今その条件下にあるかどうかを知っているかによって、これらいずれかの是認する範囲の異なる主張を引き出すというのが、ここでの論旨である。

というわけで、「」が言語表現を示す用法である場合、「」内の言語表現が示すものは命題内容と記述内容の2つがあることがわかる。「」は言語表現、「」内の文が「」なしの地の文で表れたら命題内容か記述内容だと思っておけば当面は通じるであろう。この2つの存在身分は言語表現ではないから言語表現の側を「」で括って表現するのだが、表し方自体では言語を用いざるをえないので読解を難しくしているかもしれない。「」無しの側に異なるものが2つあるとなればなおさらだ。命題内容か記述内容かの違いはセラーズはきちんと書いてくれているので、その違いがわかれば安心だろう。命題内容と記述内容の違い、さらにそれを示す言語表現との違いを明確にしながら本文を読めるようになってもらうことをこの記事では目的としている。そうなってくれれば幸いである。

 

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