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2022/04/24

第二部「もう一つの言語?」レジュメ(『経験論と心の哲学』読書会)

レジュメ作成者:misora100

二 もう一つの言語?(18~28ページ、以下数字は[1]のページ番号)


8.1 センス・データ文の言語が、日常的な言語に対応する「もう一つの言語」であるという見解について

第8節で、著者は、センス・データに関する言説が、日常的に使われる言語に対応する、認識論者が使う「もう一つの言語」であるという見解について検討する。この見解は、古典的なセンス・データ論ではない「異端的な」(19)見解だが、著者は本書で、これもあわせて批判していくことになる。その見解は次のようなものである。

 

センス・データの語彙は、時間空間のうちに存在する物理的対象とそれらがもっている性質ともっているように見える性質に関する普通の人の言語と比較して、記述的言説の内容の点では何らの増加も意味してはいない(19)

 

具体的に文の形を示して言い換えると次のようになる。

 

XはSにセンス・データΦを提示する

という形の文は端的に

XはSにとってΦと見える

という形の〔日常的な言語における〕文と同じ力をもつものと規約によって定められている(19、強調は訳文では傍点)

 

(←発表者コメントの印)この考え方によれば、すべてのセンス・データ文には、それとまったく同じ内容をもつ日常的な言語の文が対応するため、センス・データを記述する言語は、日常的な言語に対して内容的な増加をもたらすことはない。

8.2 「コード」から「豊かにされたコード」へ

著者はまず「コード」を「その各々のシンボルが一つのまとまった文を表すようなシンボルの体系」(20)と暫定的に定義し、それを修正して「豊かにされたコード」にしていく。最初の定義において、コードは次のような性質をもつ。

 

  1. 各コード・シンボルが基本的単位である。コード・シンボルの各部分はそれ自身コード・シンボルではない。(20)★つまりシンボルはそれ以上分析不可能である。
  2. コード・シンボルの間に成り立っている論理的関係は完全に寄生的である。すなわち、〔略〕それらが表している文の間の論理的関係から派生しているのである。(20)

 

★このように定義されたコードでは、(視覚・聴覚等々の形態で知覚可能な)各シンボルをそれらを構成する下位部分へと分析し、それら各部分を調べることによって、シンボルの間に論理的関係を見いだすことはできない。シンボルたちは、あくまでも、各シンボルと対応する日常的な言語の文たちがなす論理的関係を引き継ぐことしかできない。

 

著者はこの性質1を修正して、コード・シンボルの「それ自体十全な意味でのシンボルにならなくとも、体系の中で一定の役割を果たすような諸部分」(20)を導入する。そうした諸部分も含めた、センス・データ文を記述するコード・シンボルを著者は「標識(flags)(21)と呼ぶ。そうした諸部分は、使用者にとって「通常の知覚に関する言説における文の特徴をわれわれに思い出させるという役割を果たす」(21)「役に立つ記憶装置」(20)となる。

 

★この修正された定義においても、上記の性質2(シンボルの論理的関係の寄生性)に変化はない。各シンボルは、その形態によって、日常的な言語で記述される内容上の論理的関係を使用者に思い出させるけれども、だからといってシンボル自体同士が独立に論理的関係をもつわけではない。

9.1 「もう一つの言語理論」の含意

第9節で著者は、第8節で提示された見解の含意を、複数の具体例を挙げて考察する。ここでは最初の例だけ再構成する。

 

(A) そのトマトはSに赤いセンス・データを提示する(22)

(B) 赤いセンス・データが存在する(22)

(C) そのトマトはSに赤のある特定の色合いをもつセンス・データを提示する(22)

 

ここで(A)~(C)はセンス・データ文である。こうしたセンス・データ文がなす(日本語の文として読むことができる、という)形態が手がかりとなってわかるように、それぞれは次の日常的な言語の文(α)~(γ)の標識である。

 

(α) そのトマトはジョーンズに赤く見える(22)

(β) あるものがある人に赤く見える(22)

(γ) そのトマトはジョーンズに赤のある特定の色合いで見える(本文になし。発表者が補足)

 

(A)と(B)が「(A)から(B)が『導かれる』」という論理的関係をもつのは、(α)から(β)が導かれる場合のみであるし、実際導かれている。「(A)から(C)が『導かれる』」も同様である。

9.2 「もう一つの言語理論」が採られる背景には、単に記述するだけのコードと説明機能をもつ理論との混同がある

著者は、「もう一つの言語論」者は、こうした標識を「理論」における文として扱う「誘惑」(25)に駆られるという。著者は、日常的な言語で記述される文を、それと「共応」する文によって「説明」(25)する「理論」とはどういうものかを「コード」との対比で示す。

 

結局、

xはSにとって赤く見える・≡・xに属しかつSによって感覚される赤いセンス・データの集合が存在する。

           は少なくとも表面的な類似性を

gはwに対して圧力を加えている・≡・gを構成しかつwにぶつかっている分子の集合が存在する

に対してもっている。(25)

 

このようにセンス・データ文と力学現象を説明する分子論との間にはアナロジーが見て取れるが、両者は異なっている。「もう一つの言語論」によれば、前者のセンス・データ文は「コード」の文であって「理論」の文ではない。というのも

 

理論言語における文の間の論理的関係は、重要な意味で、観察言語文の間の論理的関係のコントロールの下にあるが、理論言語は、このコントロールの枠組みの中で一定の自律性をもっている。このことはコードという観念そのものと矛盾する。(25、強調は訳文では傍点)

 

★たとえば分子論の例について、物体gに押される面wの半分のみをさす領域を、新たにw'と名付けてみる。すると、「gを構成しかつwにぶつかっている分子の集合が存在する」から直接、論理的に「gを構成しかつw'にぶつかっている分子の集合が存在する」が導かれる。このように日常的な言語の文を経由することなく論理的関係が成り立つという性質(自律性)は、「もう一つの言語」論によるコード標識としてのセンス・データ文にはないものである。

 

センス・データ言語が「コード」である限り、それは「理論」が持っているような、それが「共応」する日常的な「(…)のように現れることの言語 language of appearing」(26)を説明する能力をもたない。だが「もう一つの言語論」者は、こうした「理論」の説明能力をセンス・データ言語がもっているかのような誤謬を犯しがちである。センス・データではなく「感覚内容が理論的存在者であるという考えは明白に馬鹿げているわけではない」(26、強調は訳文では傍点)。だがそのときにも、センス・データ文に現れる感覚内容を表す部分(たとえば「赤さ」)と、理論的存在者となる(かもしれない)感覚内容としての「赤さ」は本来は異なるにもかかわらず、後者として「赤さ」を扱ってしまいがちである。そのとき「もう一つの言語論」者は、センス・データを、主体が感覚したものという来歴から切り離して、「感覚的性質を例化」(26)したものとして扱ってしまいがちなのだ。

 

「感覚内容」という表現を「…が…であるとして直接知られる」という文脈を介して導入する人々でさえもこの表現を用いるときに──たとえば物理的対象や人間はともに感覚内容のパターンであるという考えを展開することによって──〔そのような文脈を介して導入したという〔訳者注〕この事実を忘れてしまうことがあるようである。そのような特定の文脈においては、上記のように導入された感覚内容〔認識主体に与えられたという意味で〕本質的にセンス・データであり、単に感覚的性質を例化するものではないということを忘れてしまうことはありうる。実際、感覚内容を感覚すること、換言すれば、センス・データの所与性を非認知的な事実として捉えるようになってしまうことさえありうるのである。(26-27、強調は訳文では傍点)

 

著者は、センス・データ言語を「理論」であるかのようにみなしてしまう誤謬を退けたうえで、センス・データ言語があくまでも「コード」である限りで、なおもなんらかの「哲学的説明」を提供する有用性をもつならば、それは「物理的対象とそれらについてわれわれがもつ知覚に関する通常の言説の内部に存在する論理的諸関係を明らかにする能力」(27、強調は訳文では傍点)にあるという。センス・データ文からは、共応する日常的な言語の文を、形式的に構築することができる。そうした限りの意味で、センス・データ文は、日常的な言語で表される知覚に関する事実──人間や事物が、「〔人間が〕見えること(looking)〔事物が〕現れること(appearing) (現れappearancesではない!)を構成要素とする論理的構築物〔つまり感覚内容のパターン〕であるという事実」(28、強調は訳文では傍点)を「説明」することができるのだ。

 

★センス・データ文がもつ説明機能(有用性)なるものがあるとすればそれは、センス・データ文の形態の分析を手がかりとして、知覚にかんする日常的な言語の文たちが本来もっている(しかしただちには明らかでない)論理的関係を明らかにできるという、いわば発見法的な機能なのだ。たとえば、9.1のところで出てきた(A)~(C)の文は、あくまでもコード・シンボルにすぎないのだが、その形態から日本語の文として読んでしまうことができる。そして、それら日本語の文を検討することによって、「(A)から(B)が導かれる」のでは? ということが推理できる。すると、(A)~(C)と(α)~(γ)との間の翻訳関係にもとづいて、「(α)から(β)が導かれる」という、日常的な言語の文たちの間にもともと存在している論理的関係が、明白なものとして示唆されるのだ。……というのが、著者が第9節2つめの最後で言っていることだと思う(DeVries/Trippletのコメンタリーもこうした解釈をしているように思う([2] p. 18))

 

★とても難しい箇所だと感じる。ブランダムの解説を読んでも、著者の記述とどう対応しているのかよくわからなかった。ただ、センス・データ言語を「理論」と誤認しようが「コード」として扱おうが、およそセンス・データ言語になんらかの説明機能があるとみなすことに、センス・データが実在する個物であることへのコミットメントが否応なく含まれてしまう、というのが著者のポイントだとブランダムは書いていると思う。

 

★「(現れappearancesではない!)」という注記では、実在 VS 現れ(仮象)という伝統的な対立が意識されいるのだろう。

 

文献

[1] ウィルフリード・セラーズ、浜野研三(訳)『経験論と心の哲学』東京:岩波書店、2006年。

[2] Willem A. DeVries/ Timm Triplett, Knowledge, Mind, and the Given:

Reading Wilfrid Sellars's "Empiricism and the Philosophy of Mind," Including the Complete Text of Sellars's Essay. Indianapolis, IN: Hackett Publishing company, 2000.


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