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2022/04/23

第一部「センス・データ理論の多義性」レジュメ(『経験論と心の哲学』読書会)


 レジュメ作成者:ペット不可(@NowolfAllowed)

 この論文では所与の神話と呼ばれる考えの枠組み全体を批判し、所与の神話で説明されてきた物事をそういった考えに囚われずにどう解釈すればよいのかを提案する。

 

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 所与の神話とは一定の概念形式が人間に予め与えられていて、それらによって人間は非推論的知識を構成できるという考え、または何らの学習なしに獲得できる知識があるという考えである。代表例が、感覚内容を感覚することが、非推論的知識を構成するというセンス・データ理論、他にも直観、第一哲学等々がある。これらは基本的に因果的関係など非認知的関係が、認知的関係、たとえば推論など文の形式をもつようなものの基礎となる考えを提供する。セラーズは所与の神話全体への攻撃の第一歩として、センス・データ論を検討する。

 

u  論理実証主義~所与の神話批判の前提~

論理主義・論理経験主義(Logical positivism)

 192030年代にかけてカルナップやノイラートが提唱し、ウィーンを中心に発展した哲学的運動。ホワイトヘッド・ラッセル・前期ウィトゲンシュタインの影響を多大に受けている(ただし特にウィトゲンシュタインは直接関係せず、この立場に侮蔑的ですらあった)。特徴は数学の重視、形而上学の放棄、命題の意味や真理についての経験主義・検証主義。経験的に検証される命題のみが世界についての真理を語りうるとする。

 よく知られるように批判は多く、ポパー(反証可能性)、クワイン(総合命題・分析命題の区別はできない、第一哲学主義・還元主義批判)、ウィトゲンシュタイン(「直接性」批判)等々に批判される。セラーズも批判者の1人。

センス・データ論「赤さ」の概念を習得していない認識主体でも、赤い何かが見えるという感覚印象からそのまま「赤い何かが見える」という知識を構成でき、これが他のあらゆる知識の基礎をなすという発想。ラッセル『哲学入門』などからも確認できる。論理事象主義の経験主義を説明する現象主義的な立場。(第三節を読んで取り消し)

 

u  所与の神話

所与の神話概念能力の行使を必要とせずに、理由の空間で行える正当化の役割を果たしうるという考え(byマクダウェル)認識主体がそれについての概念を習得せずともセンス・データや直観を得られ、それらを推論など正当化の行使に用いることができるとされる。非認知的な事実が、認識主体の認知的事実を含意する。

 

認知的:セラーズは、認識主体が何らかの認識をすることを認知的と呼ぶ。例えば何かを知ったり、そこで知ったことを推論に用いて別の知識を正当化したりすることである。そこで知られる何かは例えば命題であり、それは文の形式を持つ。

非認知的:一方で認識主体の認識に関わらないことは非認知的と呼ばれる。因果関係などは、認識主体の認識とは特に関わりなく起こるものとされる。

 

 デカルトは認知的な言葉で心を定義する。自分がある心的状態にあるということは、間違いの可能性なく自分がその状態にあることを知っているということである。かつ、自分がその状態にあると信じていることがまさにその状態にあることを含意する。ここで、ある心的状態にあるという非認知的過程と、それを知り、信じるという認知的過程が混同される。

 

u  自分の状態についての知識と、概念なしの知識~両立不能な2つの知識~

 セラーズは、命題的な内容を持つもの=概念的に分節化されるもののみが、推論において正当化の役割を果たし、知識を根拠づけたり、知識を構成したりするとする。

  所与の神話においては、認識主体が「自分がある状態にあるゆえに持てる知識」をもつような意識をもつとき、その意識の獲得にはその知識をもつためのいかなる概念の獲得も前提されない。概念の習得や使用とは独立にそういう意識を認識主体はもてるとされる。

 

理由を与えたり求めたりするゲーム規範的語彙

 「ある出来事ないし状態を知ることという出来事ないし状態として性格づける際に~(中略)~われわれはその出来事を理由からなる論理空間のうちに、述べたことを正当化したり、正当化したりすることができることからなる論理空間のうちに置いているのである」

 あるものを知識として扱うことは、それの推論における前提や結論としての潜在的な役割について語ることになる。認識主体が「~が赤い」と主張するとき、これが例えば「~が赤い」は「~が青い」という主張と両立不可能であったり、「それはトマトと同じ色をしている」という主張を導出することができ、また導出された主張を正当化したりできることを要求する。そういう意味で、知識のような認知的事実は規範的な語彙の使用を要求するという独自の特徴をもつ。そういう特徴をもつ認知的事実を、非認知的事実で説明しようとすることは、倫理学における自然主義的誤謬と同様の誤りであるとセラーズは主張する。

Ø  自然主義的誤謬:「~べき」という価値的・規範的主張は、「~である」という事実に関わる主張(経験的主張)によっては説明・還元されきらないとする主張。

 

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 センス・データ論(SDT)とは人はある個物を見る時、例えば「赤く見えるもの」を感覚するという感覚内容を感覚する作用と同時に、「それは赤く見える」という非推論的知識を構成するという考えである。知識や信念は他の知識や信念によって正当化されるが、その正当化はどこまでも遡れてしまう(無限背進)。これではどこかで循環してしまったり、どんな知識もいつまでも正当化されなかったりするという問題がある。デカルト的な認識論は、そのような推論的知識が必要とする最終的な正当化するものの源泉、つまりそれ以上正当化される必要がない、変則的な「正当化するもの」という身分をもつものとして非推論的知識を持ち出す(そしてそのような認識が生じるものとして心が定義される)

 

u  感覚すること=作用と、感覚内容=内容の区別

感覚することは作用であり、感覚されるものはその作用の対象である。

感覚されるものは感覚内容と呼ばれるのが適切。これは感覚されるものと、その感覚をもたらすものを区別するため。

例:「ピンクのユニコーンが見える」という時、「~が見える」という感覚作用の対象になっているのは「ピンクのユニコーン」という感覚内容でありンクのユニコーンそのものではない(たとえそれが幻覚でピンクのユニコーンなんて目の前には存在しないとしても、「ピンクのユニコーン」という感覚内容は感覚されている、と言うことができる)

 

u  デカルトの認識論的転回

推論による正当化の無限背進問題

 ある主張p1は別の主張p2に正当化されている。そのp2も更に別の主張p3に正当化され……を繰り返していくと、何らかの「確か」な知識を得られず無限に推論による正当化を遡ってしまう問題。ある時点で同一の主張が繰り返されてしまう(循環)か、どの主張も他の無数の主張が正当化されるまで正当化されなくなってしまう(後者はまちがった量化記号の位置転換によるとブランダムは指摘、セラーズはこれに特段異議は申し立てない)。

 

基礎的信念

 この解決のために「他の主張を正当化できるが、それ自身は正当化されることを必要としない」という特殊な身分を持つ主張がある、とデカルトは言う。その主張・基礎的信念は、誤り得ず、また局所的に全知であるような対象としての心についての知識であると設定する。

 

u  感覚するのは個物であることと、知るのは事実であること

認識主体が感覚内容を感覚することを知識の基礎として用いると次の3つの関係を描ける。

1. 物理的対象と感覚内容を感覚することの関係:因果的観念、個物についての事実の関係を非規範的語彙で結びつける。原因に関わる非認知的な関係。ある「緑さ」を感じている状態。

 

2. 感覚内容を感覚することから非推論的信念をもつことの関係:?

非推論的信念一見(正当化を必要とするような)推論によらずに導き出したような信念。「このトマトは緑色に見える」

 

3. 非推論的信念と推論的信念の関係:文としての構造をもった信念同士を結びつける、理由に関わる非認知的関係。

推論的信念他の信念から推論したりされたりして導かれる信念。「このトマトは緑色に見える」と「緑色のトマトは熟していない」から「このトマトは熟していない」が導かれる。

 

Ø  2.の関係は非認知的関係と認知的関係のどちらか?

²  非認知的関係なら?:ある感覚内容と、感覚している人間の間の非認知的関係となる。感覚内容を感覚することからは文としての構造をもつ非推論的信念をもつことはできなくなる(セラーズはこの立場を是認する)

²  認知的関係なら?:知識・信念の源泉を感覚することに求めるような基礎付け主義者が取る立場。次節以降でその困難が示される。

 

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 SDTの問題は、感覚内容を感覚するという非認知的作用と、非推論的知識を構成するという認知的作用を不当に結びつけるところにある。ある信念を推論によって正当化できるものは、やはり信念と同じ形式(例えば文構造)をもつものであり、「赤い点の広がり」のような画像の形式をもつものでは無いからだ。仮に、感覚内容について「与えられること」を「感覚内容について知ること」と定義すればこの問題は一応回避できる。多くのSDT論者はこの立場を取らず、例えば「それは赤い」という概念は感覚主体に予め備わっていて、だからこそ「それは赤く見える」という知識を構成できるし、それなしであることは不可解だと主張する。しかしこれは、知識は「あるものがかくかくしかじかである」という形式によって構成されるのであり、シンボル操作が必要であり、それらは学習されるものであることに反する。よってSDTは以下のトリレンマを導く。(A)xは赤い感覚内容sを感覚する」は、「xは、sは赤いを非推論的に知る」を導く。(B)感覚内容を感覚する能力は習得されたものではない。(C)xΦである」という形式の事実を知る能力は習得されたものである。このうちSDT(A)(B)を放棄できる。(A)を放棄することは感覚内容を感覚することが非推論的知識を構成するという考えを放棄することになる(逆のつながりは維持できる)(B)を放棄することは、SDTによって感覚内容に対応すると言われている感覚等の間の繋がりを切ることになる。

 

u  感覚することと非推論的信念をもつことの関係

 センス・データ論者は前節2.の関係が、非認知的でありかつ認知的であると主張できなくもない。概念のような認知的観念を認識主体が既に持っていると前提した上で「ある感覚内容xを感覚して、それが性質Fに見えるなら、認識主体はxFであると信じている」という形で「(概念が既に)与えられている」ことを「知る」の定義に含めてしまうことで可能になる。認知的なものによって、非認知的なものを説明するのであって、非認知的なもので認知的なものを説明するのではない。

 

u  認知的関係と非認知的関係の両取りが導く両立不可能性

 所与性の支持者の多くは上の立場を取らない。彼らによって描かれる認識主体の感覚の図式は以下のようになる。

(1)何らの概念の学習や習得なしに、あるもの(赤いトマト)を見れば「赤さ」を感じられるような、受動的な因果関係に立てる能力がある。

(2)(1)から、「それは赤いトマトだ」というような文の形式を持つ非推論的信念を持つことができる。

しかし(2)は物事を分類する能力であり、(見ているものが赤いトマトではないような)他の場面でも繰り返し適用できる能力であり、明らかに学習や習得によって獲得されるものである。(1)(2)を区別せずに同時に主張することはできない。

 

u  両立不可能性が導くトリレンマ

A. 「認識主体Sは赤い感覚内容xを感覚する」は「Sxは赤いということを非推論的に信じている(知っている) 」を導く。

B. 感覚内容を感覚する能力は習得されたものではない。

C. xFである」という形式の分類を行う信念をもつ能力は習得されたものである。

Ø  Aを放棄する:これは感覚内容を感覚することは、非認知的な出来事であると扱うことになり、上記の両取りを放棄することになる。ただし逆の「Sxが赤いということを非推論的に信じている」ことが「Sは赤い感覚内容xを感覚する」を導くことは依然妥当である。

Ø  Bを放棄する:たとえば幼児期に感じるかゆみや飢えと言った感覚は、やはり訓練されないと感じられないと主張するか、これらは感覚することではないということになってしまう。その場合の「感覚」内容とは何になるのか。

Ø  Cを放棄する:チョムスキーの生得文法以上の主張となる。すなわち、あらゆる分類に関する概念を、認識主体は生まれつき持つことになってしまう。

 

Aで表現されたものが所与の神話の「非認知的なものが認知的なものの説明をなす」という所与の神話の形態の一つである。

7

 ここからSDT(1)それなしでは何かを感覚していると言えないような、内的出来事があるという考えと、(2)あるものについて非推論的に知るというような内的出来事が存在し、その出来事が他のすべての経験的命題の証拠を提供するものとして、経験的命題の必要条件になるという考えの混合であることが判明する。(1)は感覚印象とすれば、(2)は思考についての考えである。問題は(2)のような、思考の持つ認知的で、志向性を持ち、文のような形式を持つという特徴を(1)感覚印象についても適応したくなることから生じる。この適応により「赤い三角形の感覚がまさに経験的知識のパラダイムなのである」というような混合した考えを導く。この考えは以下の困難に晒される。

u  問題の感覚を、(三角形のような構造をもつ)一種の個物と見なすべきか、(文のような構造をもつ)一種の信念と見なすべきか。

u  このような経験的知識をもつ能力は経験によって習得できるのか、あるいは経験に先立つのか。

u  それはわれわれの知識の残りの部分に対して、因果の秩序においてあるいは正当化の秩序において、先立つのか。

 ここから先でセラーズは所与の神話のもとで説明されてきた、「Sは赤い感覚内容xを感覚する」というような非推論的信念を所与の神話から切り離して解釈する方法を説明する。これが非推論的「信念」と呼ばれるのは、これも推論によって正当化されるものであることを強調するためで、今後議論される。

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